A. A. ファン・ルーラー/関口康訳
個人的に私はイエスの復活についての福音の知らせにぽかんと口を開けて立ちつくす。私は福音書記者たちと使徒たちが語ることを聞く。その私は人間と世界の全体的な救いが始まり、約束されたことを理解する。そして私はこの人々が語り伝えた出来事は本当に起こったと信じてもいる。しかし、実際に私にできるのは笑うことだけである。自分の子どもが生まれることを知らされたときに笑った、すべての信仰者の父アブラハムのように(創世記17章17節)。
なぜなら、人間と世界の救いが本当に起こるというのは素晴らしいことだから!死が克服されたのだから!永遠の命が存在し、それが我々の現実に光をともすから!
それで私はどうするか。私の人生と世界との関係においてイエスの復活の意味は何か。私は福音に対してブルジョア人間のような反応はしない!私は空虚な海を小さなコップの中で作り出したいと思わない。まるで私がイエスの復活の持つ巨大な真実と事実のすべてを、自分の心と行為の中で把握しつくしてしまえるかのようだ。
しかし私は、ぽかんと口を開けて立つことと笑うことはできる。イエスは死から此岸の生へと戻ってきたのではない。イエスは死を突き抜けて、彼岸の永遠の命へと至った。それが何を意味するのかは私には分からない。言葉においても思想においても正確に把握できない。しかし私は、そのことは本当に起こったと心の中で意識することはできる。それは我々にとって可能なことである。それは、喜ぶことと笑うことを永遠に続けることである。
(1962年4月21日、新聞コラム)
【出典】A. A. van Ruler, Verzameld Werk IV-A, Boekencentrum, 2011, p. 179.