喜びを人に分かつと喜びは二倍になる(1971年)

A. A. ファン・ルーラー『使徒の権威において』1971年

「喜びを人に分かつと喜びは二倍になる」

ローマの信徒への手紙12章15節a

A. A. ファン・ルーラー/関口 康訳

「喜ぶ者と共に喜びなさい」

わたしたちはこの言葉を一般論として捉えなくてはなりません。信徒同士の関係だけでなく一般の人間関係にも当てはめるべきです。信徒はこの点でも人間同士の関係を維持するようにと、使徒から勧められています。信徒は喜ぶ者と共に喜ぶべきです。

この箇所では人間が前節〔14節〕とは非常に異なる姿で登場します。前節で人間は信徒と教会への迫害者でした。しかし同時にどの人も自分の定めを背負っています。定めは各自の外面にだけでなく内面にもあります。多くの人によって構成される共同体があるだけではなく個人の存在があります。大きな全体の中で各個人が役割を果たします。それが人間存在の本質です。わたしたちは夕方になると自宅の私生活に戻ります。眠っている間は完全にひとりです。心の中は孤独です。

使徒が言っているのは、わたしたちは人間が経験する生の現実を考慮すべきであるということです。福音だけを考慮すればよいのではありません。福音は、生の現実とは正反対の方向から、クラリオンの音として、使徒的権威を帯びた使信として、わたしたちに届きます。福音は、最も深い喪失感からさえ人間を救い出すことができます。しかし、人間が経験する生の現実のすべてが福音の中に吸収されるわけではありません。

人間は信じることができます。そのとき人間は神の国の広大な視野の中で生きています。贖われた世界を見ています。しかし同時に人間は、救いがたいこの世の現実の中で生き続けます。その中で幾千もの経験を重ねます。

一方の福音と信仰と、他方の生と経験という二つの面が完全に調和することは決してありません。両者は全く一致しません。福音はわたしたちを、生とは正反対の側の状況に置きます。人生で経験することは、信じていることとは非常に異なって見えます。使徒が言っているのは、わたしたちはこの二元性と矛盾にとどまるべきである、ということです。経験と福音を交換してはなりません。やがて経験をすっかり捨ててしまい、ただ福音のみが残る状況が訪れると考えるべきではありません。

人生の経験から使徒が最初に引き出すのは、喜びです。これは驚くべきことです。どうやら使徒は、さほど悲観的な世界観を持っていないようです。人間は幸せになれます。喜ぶことができます。人間を幸せにするあらゆることが人生の中で起こります。人間は笑うこともできます。歯が痛いおじさんの不気味な笑いだけではありません。子どもの陽気な満面の笑みでもあります。

そのことを隣人に当てはめるとき、わたしたちは他人の邪魔をしてはいけません。仲間同士の陽気な集まりの中を不機嫌な顔で通り過ぎるべきではありません。手を差し伸べてくれる人は必ずいます。信徒は終わりなき抑圧のもとで、笑うことなどありえないほど重く生きてしまうことがありえます。人間が永遠に失われる可能性があることを常にひどく真面目に思い起こします。狂信的な理想主義者や空想的社会改良家もそのような面を持っています。彼らはあらゆる祝祭を拒否します。幾多の権力と不正にまみれた体制側の所業であると言い出します。

使徒はわたしたちに、もっと余裕を持って生きることを教えています。喜ぶ者がいるなら、人としても、信徒としても、相手の喜びの状況に適応すべきです。すぐに反対しないでください。そのコインには裏があると、いちいちあてつけがましく言わないでください。単純に喜ばせてあげてください。幸せにしてあげてください。余裕を持たせてあげてください。あなたも余裕を持ってください。共に喜べばよいではありませんか。

それは簡単なことではありません。第一に、嫉妬心を抑えなければならないからです。それは、他人が日の目を見ると不意に湧き上がる嫉妬心です。どうしてあの人は幸せなのに、私は幸せではないのかと。しかし、そういうのはけちくさいと使徒は言っています。主なる神は自由です!神は自由な力において、一方の人間と他方の人間とに全く異なる経験を与えます。同じ物語は存在しません。ひとりがすべてを独占してはなりません。おそらくそれが、泣く者と共に泣くよりも、喜ぶ者と共に喜ぶほうがはるかに難しい理由です。

第二に、それは肯定的な面でも難しいからです。人間は命令されたら喜ぶことができるでしょうか。ここでパウロは「喜ぶ者と共に喜びなさい」と命令しています。不定詞を用いています。命令法の非常に強い形です。わたしたちはここで、愛の戒めの場合と同じ問題に直面します。使徒の権威を持つ人は「隣人を愛しなさい」と他の人に命令できるのでしょうか。福音は愛の戒めに満ちています。もちろんそれは「神がわたしたちを愛している」という宣教にかかっています。同じことが喜びにも当てはまるでしょうか。「隣人は喜んでいます。その喜びはあなたにも感染します。あなたに感染したその喜びで、隣人と共に喜びなさい」と言えるでしょうか。

使徒はこの考えをもって人間の生の非常に奥深くまで立ち入ります。人間の状況に注意を払うだけではありません。状況において、わたしたちは隣人として、互いに自由かつ気楽に手を差し伸べ合うことができます。状況とは常に外面的で物質的なものです。しかし、ここで使徒は、人間の気分に注意を払います。人間は喜ぶことができます。喜びは完全に内面的な感情です。

わたしたちは内面性の深みにおいても隣人と共に生きるべきです。自分の内面性を相手の周波数に合わせなければなりません。もしわたしたちがこの使徒の勧めに応じるなら、わたしたちは隣人と共に、隣人を最も深く動かすもののところまで進んでいきます。それこそ、わたしたちが真に出会う方法です。福音は深く内面的な出会いを可能にする余裕と勇気を生み出します。このような出会いは多くありません。しかし、これこそが人生の目的です。使徒のこの勧めは、高い灯台の光のように、わたしたち人間存在の荒々しく暗い海を照らしています。

この出会い、共同体との最も深い連帯、字義通りの「共に感じる」という意味の共感が完全に不可能であるということではありません。福音はひとつの格言に映し出されています。わたしは「喜びを人に分かつと喜びは二倍になる」という〔ドイツの詩人ティートゲの〕格言を思い浮かべます。よく言えば勇敢で、非常に大胆な言葉です。あの格言は、わたしは他の人の喜びをしっかり共有できるし、喜びを他の人に分けても半分にはならず、むしろ二倍に増える、ということを前提しています。

算数の掛け算は割り算の正反対です。しかし、霊的生活では両者は同じです。他の人と共に喜ぶと、喜びが二倍に増えます。喜ぶ者がもっと喜ぶことができます。相手も喜びの分け前を受け取ります。

わたしたちが忘れてはならないのは、喜びは人生の経験の一部にすぎないということです。そして喜びは福音の一部です。そうです、喜びこそが福音の核心であるとわたしは考えます。わたしたちは、さらに一歩先の命題に挑みます。喜びは神の本質において最高のものであり、愛より高位のものです。

出典 A. A. van Ruler, Op gezag van een apostel, G. F. Callenbach, 1971, p.117-120.

(日本語版公開 2023年1月27日)

※2024年3月22日 改訳